禅は、坐禅ではない 坐禅は、禅ではない 第109号
 インドの古いことば・サンスクリットのdhyānaが、中国の漢字に音訳されて禅那(ぜんな)と表現(ひょうげん)された。やがて、禅那は禅(ぜん)と短縮され、日本に伝えられて、今日に及んでいる。
 禅の意味するところは、静慮(じょうりょ)とされる。
 静慮とは、一般に、心を対象ないし真理に集中して、深く考えることとうけとめられている。昨今、よく使われていることばで表現すれば瞑想(メディティション)であろうか。天台宗の止観、真言宗の阿字観、臨済宗の公案禅をはじめ、観、観念、観心、観法なども、広くいえば禅の範疇にはいろうか。

 さて、わが道元禅師は、禅という語はほとんど用いられない。坐禅(ざぜん)、坐(ざ)、打坐(たざ)の語を用いられている。
 それは中国で発生した禅宗の禅ではない。曹洞宗でもなければ黙照禅でもない。仏仏祖祖の正伝の正法は、ただ打坐だけである。釈尊に直結する坐禅だ。仏道は自己を学ぶことであり、打坐は自己の正体だと示される。

 その坐禅は、(1)息を端(ただ)し、坐を正し、(2)息を調え、(3)心を致(な)げ出すのである。
 いま、(3)心を致げ出すという点について。
 それは、心、意、識のはたらき、念、想、観の動きを止めることである。仏に成ることすら意図してはならない。要するに、ものを考えないことだ。そこに、真の悟りがあり、大いなる救いがある。

 実は、禅と坐禅とは深い歴史的由緒と思想的関連があるが、それはさておき、いま、坐禅は、静慮ではない。そのほかあらゆる心の働きでもないのである。ここに坐禅修行のはじまりがあり、おさまりがある。

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