山頭火(さんとうか)の俳句と道元の『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』 第22号
 石川県が生んだ世界的な仏教学者、鈴木大拙博士は、その著『禅と日本文化』のなかで、加賀の千代女の俳句「ほととぎす ほととぎすとて 明けにけり」というのを紹介しています。
 私は、俳句は門外漢ですから、なにも語る資格はありません。
しかしながら、自由律俳句の山頭火(さんとうか)の作品には、なぜか心魅かれるものがあります。
 五十年もむかしから、句集は全部読みましたし、ゆかりの地もたずねました。研究、評論のたぐいも手あたり次第に目をとおしてきました。
 山頭火の生いたち、家庭環境は、ひとくちには言えない複雑なものがあります。
 山頭火は、やがて出家し、曹洞宗の僧となり、行乞の旅に出ました。

      分け入っても分け入っても青い山
      この旅果もない旅のつくつくぼうし
      へうへうとして水を味ふ
      かなかなないてひとりである
      てふてふひらひらいらかをこへた
      松かぜ松かげ寝ころんで
      しみじみ食べる飯ばかりの飯である

 おなじ語や音をかさねる同語や同音反復の手法は山頭火の句の特徴でもあります。
 山頭火の句は、ひとりぼっち、さびしさ、ものがなしさ、切なさ、しずけさ、ひとり旅、まずしいくらし・・・そういったことばを思いおこさせます。
 誰のこころの奥底にもひそんでいるどうぢようもないやりきれなさが、仏教、禅につつまれて、独特の表現と味わいを生んだのでしょうか。
 道元禅師の代表的著書『正法眼蔵』に、「法華是法華(ほっけこれほっけ)なるべし」「生死去来心(しょうじきょらいしん)は生死去来のみなり」「全身これ全身なり」などとあります。これらのことばは、そのものそれ、即ち原事実ともいうべき法(真理)の世界をあらわしたのです。
 山頭火は、『正法眼蔵』も読んでいて、表現のうえで、ヒントをえたのかも知れません。




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