「自分探し」と仏教(1) 第28号
 昨年、香田さんという日本人の青年が、「自分探し」のために、イラクまで出かけて殺害され、米軍に発見されました。
まわりの人たちは、危険だからイラクへ行くのはよした方がよいと何度も声をかけたそうですが、それを振りきって出かけたのだそうです。
 なんという痛ましいことでしょう。なんという悲しいことでしょう。
 私は、大乘寺で、香田さんをふくめて、世界中で起きているこのようにいのちをなくした人たちへのご供養を、毎朝のおつとめのなかで行っています。
 私は、その後も、イラク戦争、アメリカと日本のことなど、ずうっと考えていました。仏教僧として私のしなければならないことは、なにか・・・。
 ちょうど、そこへ、解剖学者・養老孟司さんが、「寺門興隆」誌一月号(興山舎刊)に、「仏教と自己」と題してのべておられる文章に出あいました。
 養老さんは、自分は宗教家ではないから、自分の宗教への視点は、俗世から見たもの、宗教を外から見るということになろう。宗教は社会にとって「どう役に立つか」、それのみが問題であるといいます。
 そして、香田さんのことに触れています。
 養老さんによれば、「自分探し」で「若者が道に迷っているのである。いまの若者は、「変わらない私」があると、思い込まれている」。
 教育は、「個性あるこの私」を理想としており、その個性は生れてから死ぬまで「変わらない」のである。若者はそう思っているに違いない」うんぬん。
 「どこかで近代的自我が現代の「世間の常識」になっているからであろう。そこから「自分探し」が生ずる。(中略)自己とはなにかという問題は、社会全体に影響を与えてしまうからである」。
 そして、「はっきりいうなら、香田さんの死は、仏教だけのせいではないとはいえ、仏教の怠慢なのである」。
 仏教は「自分探し」の宗教だと私はうけとめますが、にもかかわらず香田さんのようなやりきれない事態が生ずるのは、まさに私ども仏教僧の怠慢です。少なくとも、私は、そのことをはっきりと自分に認めさせなければなりません。





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