もったいない 第30号
 いまから二百年ほどむかし、滴水(てきすい)という禅宗のお坊さんがいました。京都のかたいなかの出身です。
 同郷のえらいお坊さんということで、中学校の先生が、こんなエピソードをしてくれました。
 滴水和尚は、若い修行時代、掃除のあと、桶の残り水を庭に捨てました。
これを看たお師匠さんは、大きな声で叱りつけました。
「コリャ。残り水といえども、無駄に捨ててはならぬ。草むらに捨てれば、虫や草の根は、よろこぶだろう。もったいないことをするな!」
 深くかえりみるところがあったこの少年僧は、一滴の水も粗末にしない、自戒の意味で「滴水」と名を改めたのでした。
 鎌倉時代、永平寺を開いた道元禅師は、朝から晩まで、とうとうと豊かに流れている谷間の水をすくって使い、あとの杓の半分の水は、のちの世のため人のために、また渓流にもどされた。この言い伝えをもとにして、永平寺の門前には、「半杓橋(はんしゃくきょう)」という名まえの橋があります。
 さきごろ、ノーベル平和賞を受賞したケニアの環境副大臣ワンガリ・マータイさんは、二月に来日して、「もったいない」「MOTTAINAI」という日本語を知って、感銘をうけ、世界に広める決意をいました。
 「限りある資源を有効に使い、みんなで公平に分担すべきだ。そうすれば、資源をめぐる争いである戦争は起きない。」と彼女はのべているそうです(『産経新聞』)。
 私が、子供のころの日本人の生活は、今とは比較にならないくらい物質的には貧しい生活をしていたように思います。そのころ、ものを大切にしなければならない、「もったいない」ということばをよく使い、こころがけていたようです。
 が、いまは、物質的には豊かな、そして、無駄の多い消費生活が進められていて、しかし、にっちもさっちもいかなくなって人類は滅亡してしまうのでしょう。しかし、そうであってはならないと私はおもいます。





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