『正法眼蔵』「生死」の巻(4) 第67号
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。故(かるがゆゑに)仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、
のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。」
 これは、
 「生から死に移っていくというのは、あやまりである。生は、すなわちひとときの位置であって、
そこには、すでに、そのはじめがあり、おわりがある。それゆえ、仏法のなかでは、生はそのまま
不生であるという。

 滅も、やはり、ひとときの位置であって、また、はじめがあり、おわりがある。
だから、滅はそのまま不滅であるというという」と現代語におきかえることが出来ましょう。
 ふつう、私どもは、生れて、死んでいくというふうに考えています。ところが、道元禅師は、
それはあやまりであるといわれるのです。というのは、生は生であり、生のあと、さきであって、
死ではない。生は死にはならない。だから、死に対する生というものはない。だとすれば、もはや
生と名づけるべきもない。そこで、しいていえば、生は不生だということになる。

 それは、死すなわち滅についても、同様です。
 生が滅して死となるのではない。滅は、滅でしかないのです。とすれば、滅はないから、
しいていえば不滅というほかない。ついでいえば、死んだのち生れかえってくるなどということは
ありえない。生を生ききり、死を死にきる。こんなことをいうと、びっくりしたり、そんなことはないと
強く否定する人もいるはずです。さはさりながら、うっかり、この道元禅師のご文章を鵜呑みにしてしまうと、とんでもない誤解を生むことにもなりますから、ご用心、ご用心。

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