『正法眼蔵』「道心」の巻(5) 第79号
 「つぎには、ふかく仏法僧の三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝を供養し、
うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねても、さめても、三宝の功徳をおもひたてまつるべし。
ねても、さめても、三宝をとなへたてまつるべし。
 たとひ、この生をすてて、いまだのちの生にうまれざらん、そのあひだ、中有(ちゅうう)といふことあり、そのいのちも七日なる、そのあひだも、つねにこゑもやまず、三宝をとなへたてまつらんとおもふべし」。

 右を現代のことばにおきかえますと、「つぎには、仏、法、僧すなわち三宝(さんぽう)をうやまい
たてまつるべきである。生をかえ、身は代っても、三宝を供養し、敬いたてまつると願うべきである。
寝ても、醒めても、三宝の功徳を思いたてまつるべきである。
寝ても、醒めても、三宝をとなえ奉るべきである。
 かりに、この生がおわって、次の生にうまれないあいだを中有(ちゅうう)とよばれることがあるが、
そして、そのあいだのいのちは七日間であるが、そのあいだも、つねに、となえたてまつることを
思うべきである」となるでしよう。
 すべてありとあらゆるものの根本の道理を悟ったお方が仏(ほとけ)さまです。
その仏さまが説かれたおしえが法です。そして、その教えを生活している人たちのあつまりを僧といいます。
 仏教が歴史的、社会的に実動していることは仏、法、僧が生きているということです。
現実に、仏、法、僧のいずれかが生きていないときには、そこには、仏教はないと言ってよいでしょう。

仏教徒であるかぎり、そして仏教徒がつどう国際会議のような場合には、
はじめに「三帰依文(さんきえもん)」がパーリ語_(あるいはその国のことば)でとなえられます。
「三帰依文」とは、三宝に帰依(信ずる)することばという意味です。
 かって日本の曹洞宗から離脱して「三宝教団」という新しい組織をたちあげたのは、もと曹洞宗の
僧であった安谷白雲老です。白雲老師の三宝教団は、この「道心」の巻あるいは「帰依三宝」の巻の説示に
由来するのかどうかは存じません。若いころ、私は白雲老師にも参じました。なつかしい思い出です。


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