『正法眼蔵』「道心」(2) 第93号
 仏の道、真実に生きていくことを知っている人は、稀である。
知っている人を求めて、質問しなさいというのが、まえのところにしるしてありました。

 この人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。
 まことに道心ありて、人にしられざる人あり。
 かくのごとく、あり、なし、しりがたし。おほかた、おろかに
 あしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。
 また、わがこころをさきとせざれ、仏のとかせたまひたるのりを
 さきとすべし。
 よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこころにかけて、
 この世にいかでかまことの菩薩あらましと、ねがひいのるべし。

 「訳」
 まわりから、この人物は道心すなわち仏の道をもとめていくこころが
あるといわれていても、ほんとうのところ、道心の無い人がいる。
 ほんとうは道心があるのに、そのことが人に知られないひとがいる。
 このように、有るか無いは、知るのがむずかしい。
 だいたい、愚かなな悪人の言うことばは信じないこと、聞かないことだ。

 また、自分のこころを優先せず、仏のお説きになった法を優先せよ。
 よくよく道心のあるべきようを、夜も昼もつねにこころにかけて、
この世になんとかまことの菩薩すなわち道心があってほしいと、願い祈るがよい。

 このところを拝読しますと、ここにしるされていることは、実は道元禅師ご自身の
こころの遍歴、苦難のあとかたではなかったかとおもわれます。
 道元禅師は、若くして、ご両親と死別されます。そして、比叡山にいるお坊さんの
おじさんのところに行きます。そして、お坊さんとしての人生を歩みはじめます。
 当時、比叡山は、仏教の中心地です。総合大学です。たくさんのお坊さん、
さまざまな教え、修行法がありました。
 そこで、道元禅師は、仏教を学ぶうちに、自分にとって仏教とは
なんであるか、ほんとうの仏教とはなにか、仏教を教える人は、いったい
どのような人なのかなどなど、いわば自我意識に目覚めた道元禅師は、おそらく、
比叡山をせましとばかり、おおくの先達たちの門をたたいたにちがいありません。
 しかし、ますます、わけがわからなくなり、途方にくれてしまった、その様子が
ここにしるされているように、私にはおもえてなりません。

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