『正法眼蔵』「道心」(6) 第97号
すでに中有(ちゅうう)をすぎて、父母(ぶも)のほとりにちかづかんときも、
あひかまひて、正智(しょうち)ありて託胎(たくたい)せん、処胎蔵にありても、
三宝(さんぽう)をとなへたてまつるべし。うまれおちんときも、
となへたてまつらんこと、おこたらざらん。
六根(うつこん)をへて、三宝を供養(くよう)したてまつり、となへたてまつり、
帰依(きえ)したてまつらんと、ふかくねがふべし。

 〔訳〕
 すでに、死後の七日すなわち中有(ちゅうう)を過ぎて、父母のもとに近づ
こうとするときも、あらためて、正しい智慧をそなえて胎(たい)すなわち
体を託そう。体内にいるときも、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と
となえたてまつるように。生れるときも、となえたてまつることを怠らないようにせよ。
六根すなわち眼、耳、鼻、舌、身、意をあげて、仏、法、僧の三宝を供養したてまつり、
となえたてまつり、帰依したてまつろうと、深く願うようにせよ。


 この世にあるときも、死んだあとも、またさらにまた生れるときも、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と帰依三宝をとなえるように、
からだとこころいっぱいで、三宝を供養するように、おとなえするように
帰依するようにと、深く願いなさいと示されるのであります。
 ここに中有とあるのは、死後の世界の一つのすがたですが、これは
なんども申しますように、過去世、現在世、未来世の実在を説くインドの
三世観を背景にしたものであります。
 で、いつなんどきでも、どこにいても、三宝に帰依することを
怠らないようにせよと、ここでもまた、お説きになっているのであります。

 南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧がむずかしければ、いま
南無三宝でもよい、南無三宝が面倒ならば、南無三(なむさん)でもよい、
おとなえしなさいということになりましょう。
 徹底した南無帰依三宝が説かれてあります。私どもも、そのように、
いつ、なんどきでも、忘れずにおとなえしましょう。



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