「黙禱」よりも 「黙礼」がふさわしいか 129号
 「黙禱」の語は、第一次世界大戦休戦一周年に、イギリスのジョージ五世が呼びかけ、世界に広まり、日本では、皇室が関東大震災一周年に「黙禱」を捧げ、浸透していったという経緯がある。
 このことに、神祇院は、「黙禱廃止」を検討し始め、仏教界も心中穏やかではなかった。しかし、結局、関係機関が協議して、「黙禱」は、国民全体が敬神感謝の意を表す適切な形式であるとの見解がまとまり、靖国神社の祭典などでも捧げられ、今日に至っているという(斎藤吉久氏。詳細は『月刊住職』平成二七年一一月号を一読されよ)。
 私は、「禅のこころ」第一一四号で述べたとおり、「黙禱」はしない。「黙禱」は、キリスト教のことば、内容であり、仏教、神道のそれではない。
 今年七月二日早朝、バングラデシュの飲食店襲撃テロで、日本人七名が犠牲となった。その御遺体が羽田空港に到着したとき、岸田外相らがひつぎの七人に献花し「黙とう」した(「北國新聞七月五日夕刊」。しかし、「黙礼した」とするのは、「北陸中日新聞」である。「黙礼」の語を、私は、はじめて眼にしたのである。私は、「黙礼」の方が、心ある仏教徒、神道人に、より抵抗感なくうけ入れられることばだと思うが、どうだろうか。

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