「いろはにほへと」(3) 第16号
 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」−すべてのものは、うつりかわる−これが仏教の根本だということを、このまえ書きました。
 この「諸行無常」にならんで、「諸法無我(しょほうむが)」ということばがあります。
「諸法」とは、この世のすべてのもの、いっさいがっさいということ。
「無我」とは、我が無いということ。我というのは、孤立し、固定した実体的なものです。
ですから、「諸法無我」は、この地上にあるあらゆるすべてのものは、孤立し、固定した実体のあるものはない、少なくともそういう状態のものではないという意味です。
べつの表現をすれば、すべてのものは、たがいに、かかわりあってなりたっているということ。相互に依存する関係的存在、条件的存在、一時的存在ということです。
 これはよく考えてみればわかることですが、あの「諸行無常」が、ものを時間的な縦の線であらわしているとすれば、この「諸法無我」は、ものを空間的な横の線でとらえているといえましょう。
 要するに、見る角度、表現することばがちがうだけで、おなじことを指しているのです。
「諸法無我」の道理は、「諸行無常」とおなじで、誰にだってわかっているあたりまえの事実なのでしょうが、自分の利害、損得がからんでくると、とたんに、この道理がわからなくなって、むちゃくちゃなことを考え、行うことになります。
個人の生活から、思想、イデオロギー、政治、経済、軍事、国家体制にいたるまで、例外ではありません。
 要するに、「諸法無我」の道理にもとづいて、共存、共生、共栄をめざしていくしか、人類の進むみちはないとおもわれますが、どうでしょうか。





戻る