「自分探し」と仏教(2) 第29号
 早春の野に咲く梅の花の香りは、なんともいえず、奥ゆかしい、きよらかさがあります。
 むかしから、梅は「寒苦を経て清香を発す」といいます。あのすてきな梅花の香りは、きびしい寒苦のなかに育った梅にこそやどるのだそうです。
 中国、宋の時代、戴益(たいえき)という人に、「春を探るの詩」があります。

 終日、春を尋ねて 春を見ず  (しゅうじつ はるをたずねて はるをみず)
        朝から晩まで、あちらことらをたずねて歩いたけれども、どこにも春は見出せなかった。
 
 藜を杖つき踏破す 幾重の雲  (あかざをつえつき とうはす いくちょうのくも)
        あかざの杖をついて、これまで、どれほどたくさんの山々をふむこえてきたことだろう。

 帰り来たりて 試みに梅梢を把りて看れば  (かえりきたりて こころみにばいしょうをとりてみれば)
        がっくりして、わが家にかえってきて、ふと庭さきに咲いている梅の枝をとってみれば

 春は枝頭に在って 己に十分  (はるはしとうにあって すでにじゅうぶん)
        梅のこずえに、すでに春はおとずれていた。ふくよかによい香りを放って、一輪、一輪が春を
        いっぱい咲いている。

 春のまっただなか、春はどこにあるのかと探しに出てまわってみたが、春をさがしだすことは出来ず、疲れはてて、自分のうちに帰ってみれば、庭の梅の花が、にっこりほほえんでいる。
 なあんだ、遠いところをさがしまわらなくたって、もっとも身近なところで、すでに春はまっさかり、梅はニコニコ笑っている。
 さきの香田さんのことをひきあいに出していえば、ひとは「自分探し」に出かけるのです。いや、出かけざるをえなくなるのでしょう。現実は、疑問と不満がみち、ともすれば、いらいらして、将来は不安で、こころもとない。ほんとうの自分はなんだろう。しあわせは、どこにあるのだろう・・・。
 しかし、いずれにせよ、いまのこの自分をぬきにして、「自分探し」をすることは出来ないでしょう。
 さて、その自分ですが、いま、この自分をどうしようというのか、そこが実は、問題のキーポイントです。
 ぜひ、大乘寺へ来て下さい。
 坐禅をしてみませんか。



 

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