『正法眼蔵』「道心」の巻(7) 第81号
「すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまひて、正智ありて託胎せん。

処胎蔵にありとも、三宝をとなへたてまつるべし。うまれおちんときも、となへたてまつらんこと、

おこたらざらん。六根をへて、三宝を供養したてまつり、となへたてまつり、帰依したてまつらんと、

ふかくねがうべし。」


 現代語に訳しますと、
 「すでに、中有(ちゅうう)_(死後の七日間_)を過ぎて、父母のもとに近づこうとするときも、
あらためて、正しい智慧をそなえて胎に身を託そう。胎内にいるときも、
三宝(さんぽう)_(南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧)をとなえたてまつるように。
さらに生まれおちるときも、となえたてまつることを怠らないように。
六根(ろつこん)_(眼、耳、鼻、舌、身、意)をあげて、三宝を供養したてまつり、
となえたてまつり、帰依したてまつらうと、深く願うようにせよ」となりましょうか。

 前回につづいて、ここでも、道元禅師は、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と帰依三宝を
おとなえすることを重ねて強調しておられます。
 仏と法と僧の三つの宝があってこそ、わたくしたちの世界は、なりたつことが出来ます。
 法(ほう)_(真理。すべてのものの事実そのもの_)と、法を自覚した仏(ほとけ)と、
この仏を信じて、法を学び正しいさとりの智慧と大きな救いの慈悲を身につける僧(そう)の人びとこそ、
私たちの無上のたからものであります。

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