『正法眼蔵』「道心」の巻(9) 第83号
 「眼のまへに、やみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて、
三帰依(さんきえ)をとなへたてまつること、中有(ちゅうう)までも、
後生(ごしょう)までも、おこたるべからず。かくのごとくして、生生世世をつくして、
となへたてまつるべし。仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。
これ諸仏菩薩の、おこなはせたまふみちなり。これふかく法をさとるといふ、
仏道の、身にそなはるともいふなり。
さらに、ことなるおもひを、まじへざらんとねがふべし。」

 上の現代語訳
 「目のまえが闇になってからのちは、たゆまず、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧の三帰依を
となえたてまつること、中有(前の生から次の生を得るまでのあいだ)から後生(今の世の生を終えて
生れかわること)までも怠ってはならない。このようにして、生れかわり死にかわりして、
となえたてまつるのみである。仏の智慧に至ろうとするまでも、おこたってはならない、
これが、もろもろの仏、菩薩さまたちの行われるみちなのである。これを、深く法を悟るとも言い、
仏道が身にそなわるともいうのである。さらに、異なった思いをまじえないようにしようと
願うべきである」。

 さらに、つづいて、「南無帰依仏」、「南無帰依法」、「南無帰依僧」をとなえなければならない。
仏の智慧をいただくに至るまでも怠ってはならない、余念をまじえてはならないと説かれるので
あります。

 当時、道元禅師のまわりには、浄土念仏、南無阿弥陀仏のおしえが風靡していたとおもわれます。
それには触れることもなく、インド以来の中有や後生の思想をもうけいれながら、南無三帰依を
くりかえしくりかえし示していらっしゃいます。まことにおどろくべきオーソドックスな三国伝来、
仏教本流のお示しといえましょう。

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